感覚をほどく音、眠りへいざなう空間 ― ノイズマスキングが拓く「静けさの質」の話

音と睡眠

「ノイズマスキング」

眠りとは、ただ目を閉じることではありません。
意識を手放し、感覚を解きほぐし、身体がゆるやかに環境と調和していくプロセスです。
けれども現代の都市生活では、そのために必要な「静けさ」が、意外なほど手に入りにくくなっています。
エアコンの低音、隣室の生活音、交通の振動。
私たちのまわりは“音”という目に見えないノイズに満ちています。
それは不快とまでは言えないかもしれませんが、私たちの脳はこうした断片的で方向性のある音に常に反応し、真の意味で“休む”ことができずにいるのです。
そこで注目されているのが「ノイズマスキング」という考え方です。
これは、音を完全に消し去るのではなく、別の一定の音で空間をやさしく満たすことで、不意に入り込む刺激音の存在感を和らげ、脳や神経を安心させるという技術です。
ホワイトノイズや自然音、環境音楽などが用いられています。

「感覚をほどいていく」

ただノイズマスキングの本質とは、「感覚を遮断する」のではなく、「感覚をほどいていく」ことなのだと捉えることもできます。
たとえば、情報を伝えるための音は、明瞭であること、方向性があること、集中を促すことが求められます。
しかし、眠りのプロセスはその正反対にあります。
意識の輪郭をあいまいにし、感覚を静かに“開いていく”ことが求められるのです。
そうした状態をつくるには、音が空間に均等に広がり、耳に向かって飛び込んでくるのではなく、空気の一部として“漂う”ことが求められます。
つまり、音が情報ではなく“場そのもの”になる必要があるのです。
自然の中にいるとき、私たちはまさにそうした音に包まれています。
風が木をゆらす音、遠くの鳥の声、川のせせらぎ。それらは私たちに特定の方向から届くのではなく、空間全体に“ある”という感覚をもたらします。
そしてその中にいると、思考がほどけ、呼吸が深くなり、眠りに似た状態に近づいていくのです。
都市生活のなかでそのような環境をつくるには、「どんな音を、どう響かせるか」という意識が重要です。
音を遮るのではなく、心地よく調和させること。そして何より、「感覚を絞り込む」のではなく、「感覚をほどいていく」ことを許す環境づくり。
それこそが、ノイズマスキングが本当に果たすべき役割ではないでしょうか。

「感覚に意味づけをしない」

私たちが眠りに入るとき、脳では覚醒状態に関与するネットワーク(いわゆるデフォルトモードネットワークや前頭前野の活動)が徐々に低下し、外界からの情報処理が緩やかに遮断されていきます。
同時に、視覚や聴覚などの感覚情報を統合する「感覚連合野」の活動も沈静化し、自己と世界との境界がぼやけていくような感覚が生じます。
このプロセスは、単に感覚をオフにするのではなく、むしろ「感覚に意味づけをしない」状態へ移行していくものです。
つまり、音や光といった刺激は存在し続けていても、それに対する注意や反応が弱まり、「気にならなくなる」という神経学的な変化が起きるのです。
このとき重要なのが、「音の質」と「空間におけるその存在のしかた」です。方向性の強い音は局所的に脳を刺激し覚醒を促しますが、空間に拡散する柔らかい音は、神経系の過度な選択的注意を引き起こさず、むしろ副交感神経系を優位にし、全身を弛緩させる効果が期待できます。
つまり、眠りとは「感覚を遮断する」ことではなく、「感覚の意味づけを手放す」こと。
その環境を整えることが、脳と身体の深い休息につながっていくのです。

音と睡眠研究所では、睡眠という繊細な営みにとって、音が「どのように存在すべきか」をこれからも探究していきます。
眠れない夜を責めるのではなく、そっと包み込むような音が、きっと誰かの安心の場になることを信じて。

この記事を書いたひと

有限会社エムズシステム 代表取締役 三浦 光仁

「音と睡眠」に関する第一人者。
音の不思議さ、音楽の凄さに身も心もやられ、人生の半生を捧げる。
あるエネルギーの振動(周波数帯域)により、人体が受け止める感覚センサーが異なると知り、驚愕。波長、周波数、共鳴、共振、という科学に足を踏み入れ、量子論的な世界を毎日楽しく生きる、有限会社エムズシステムの代表取締役、三浦光仁(みうらてるひと)。