閑さや 岩にしみいる 蝉の声
山形県、立石寺にて松尾芭蕉が詠んだ「奥の細道」の中の名句として有名なこの句は日本人ならば誰もが体感したことのあるでしょう。
夏の終わりの蝉の声すら、あたりの空間に溶け込んでしまう静謐で心穏やかな瞬間を切り取っているかのようです。
あの全てを覆い尽くしてしまうような蝉時雨を「閑さや」と詠嘆してしまう心持ちはどのような作用によってもたらされているのか?
俳人たちはなぜか心の捉え方ではなく、立石寺で鳴いていたのはアブラゼミなのか、ニイニイゼミなのか方に興味が湧いてしまうらしく、大家が集まって論争を繰り広げたようですが、それはそれで、俳人と呼ばれる人たちのお好きなようにとは思いますが、私たちはデシベルで表されている音量を聞いているわけではなく、それを最終的な感覚センサーである脳を通して心で聞いていることに、より強い興味が湧いてきます。
空間を覆い尽くす蝉時雨が何デシベルかは分かりませんが、(80dbくらいでしょうか?)その大騒音さえも「閑さや」と詠む心の平静さ、整い方は不思議としか言いようがありません。
音の鳴るものを順々に止めて行くと、最後は時計の秒針が進む音さえ耳元で鳴っているかのように大きな音で聞こえてきます。
私たちは絶対的なデシベル数を聞いているわけではなく、この地上に生きている上での相対的な音を聞き分けている、と言えるのかもしれません。
外耳、中耳、内耳と伝わり、そして24,000本の繊毛細胞による共振が電気信号に変わり、脳に伝わる間に、さまざまな補整が施され、蝉の大合唱も「閑さや」と感じるようになるようです。
この精妙な聴覚センサーにどんな音を与えるか? そろそろ真剣に考えるべき時が来たように思えます。